神宝と京はなぜ幅が違うのか?

板橋区大山のGM本社より、片桐がお送りします。

この大山という町、走っているのは東武東上線ですが、
帯の色は阪急マルーンそっくりであり、
ミンデン台車であり、アルナの車体であり。

あれが阪急電車だったら、という妄想を時々してしまいます。
雑然とした駅前の様子はどことなく大阪府内の小駅の感もあります。

さて、阪急7000系リニューアル車です。
407A/407BのEキット発売以来、見過ごされてきた
神宝線規格と京都線規格の違い、このプラ製模型メーカーにとっては
禁断の果実、いや諸刃の剣とも言える、
しかしながら阪急模型において避けては通れぬ違い。

この1/150スケールで1ミリにも満たない違いはなぜ生まれたのでしょう。

■神宝線
阪急の歴史は宝塚線に始まります。
箕面有馬電気軌道として、明治43年に生まれた宝塚・箕面線は、
起点である大阪梅田の百貨店経営、豊中・池田といった宅地開発と
箕面山の観光開発、ならびに宝塚温泉の遊園地や歌劇場経営などの施策により、
需要を作り出すことで電鉄経営を行なうモデルケースとして注目されました。

続いて大正7年、阪神急行電鉄への社名変更を経て
昭和11年までに神戸線・宝塚線を中心とした阪神急行の路線網が完成します。

■京都線
京都線の建設は阪急の手によるものではなく、
京阪系の新京阪鉄道によるものというのは有名な話。
ただし十三~淡路と千里線淡路~千里山間は北大阪電気鉄道が
大正10年建設したものを天神橋への免許ごと買い取り、
大正14年から京阪合併後の昭和6にかけて淡路~大宮間を完成させます。

このとき、京阪は淀川東岸において京街道に沿ったことから
必然的に路線長が長くなり、併用軌道やカーブが多くなったことで
大阪~京都間の速達性に難があった反省から
新京阪の建設にあたっては高速指向の設計となり、
大型車体に対応すべく建築限界も広く取られました。
(このことが鉄道省に急電(→新快速)を発祥させた
原因であったのかもしれません)

■そして合併へ
昭和18年、戦時統合により京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が
合併、昭和24年に分離しますが、この際に新京阪線は
京阪神急行に残留、同社の京都本線となって現在に至ります。

以後、神宝線と京都線というふたつの規格を持つことになった
阪急は、特に2000系以降のシルバーサッシ世代の形式において、
一見デザインは同じでありながら少しずつ車体幅や全長が異なるという、
よく見なければ判らないけれど、知ってしまうと
全然別物に見えてくる、玄人好みの差異を持つことになったのです。

現在、京とれいんとして京都線で7000系が活躍しています。
同車が駅に停車としている写真を見ますと、車体とホームの間に
通常の京都線車両と比べてよりやや大きい隙間が空いてるのが
お判りいただけると思います。

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